ペトリの倒産と再建まで 「日本の労働者自主管理」より要約

「ペトリの倒産と再建まで 「日本の労働者自主管理」より要約」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

ペトリの倒産と再建まで 「日本の労働者自主管理」より要約」(2012/08/02 (木) 11:18:08) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

260 :リバースアダプタ:2012/05/12(土) 18:49:23.48 ID:kxYN7w9i 日本の労働者自主管理に目を通しました。  私が理解できた範囲で、わかったことを書いてみます。  ペトリの生産現場の労働者の賃金はかなり低く抑えられていたようです。組合公然化後の75年でも他業種や同業他社に対し2割程度も低かったそうです。  60年代の数字はありませんでしたが、業界の最低水準であったことは確かで、それを背景に部品を低コストで内製し低価格で販売することが、一時な成功につながりました。  この時期、高配当をつづけたため栗林一族の所得は相当高額だったようです。(足立区の長者番付の上位に栗林家の数名が載るくらい)  当然、労働者からは不満がでて、組合活動が活発になります。ここで経営側は徹底した組合否認政策をとったことが、その後、組合との激しい抗争を呼び込むことになっていきました。  261 :リバースアダプタ:2012/05/12(土) 18:49:58.69 ID:kxYN7w9i 60年代後半から、技術的にも電子技術者の採用や引き抜きは行っていたようですが、結局定着させることができず、電子系の技術は蓄積されることができませんでした。また生産設備への投資もあまりなされないため、社内の生産性も上がらなかったようです。  この後の、オイルショックとベトナム戦争の終結のための米軍需要の減少、円の変動相場制への移行が重なり、経営は急速に悪化しました。  262 :リバースアダプタ:2012/05/12(土) 18:50:20.74 ID:kxYN7w9i ここで経営側は内製から、外注化に方針を転換します。  非常に急激かつ大規模なもので、レンズシャッターの全数と一眼レフの半数で、全体の7割に達していたそうです。  人員削減と外注化によるコストダウンをねらったものですが、外注管理能力低いため、品質はさらに低下、かつコストは下がらず採算はさらに悪化するという状況に陥っていきました。  また海外向けに新たに契約した販売会社は巨大な販路でしたが、10種もの相手先ブランドでの生産を行う必要があったため多品種少量生産となり、現場は非常に混乱したようです。  組合側も経営の実態を理解できておらず、賃上げ要求と外注化への反対をつづけます。最終的に77年の倒産にいたります。  263 :リバースアダプタ:2012/05/12(土) 18:51:04.84 ID:kxYN7w9i 倒産後の組合の自主生産と再建の流れですが。  倒産時600名いた組合員は78年1月には145名となっています。  柳沢氏の協力を得て、ペトリカメラ時代は外注されていたポケットカメラの生産を本社工場で開始。  倒産から1年半後にMF-1の自主生産を開始しますが、倒産時には外注化がかなり進んでいたため、関係会社からの部品の調達はかなり大変だったようです。  組合員は現場中心で技術蓄積が無く、またすべての工程に精通した者が残っているわけではないので、シャッタースピード精度問題を内部で解決できず長期のライン停止などが発生しています。  ここでも柳沢氏の協力を得て解決を図っています。  264 :リバースアダプタ:2012/05/12(土) 18:51:43.78 ID:kxYN7w9i 組合での生産は、倒産以前に比べて生産性はむしろ低下しています。生活費(賃金)を倒産時の6割とすることで何とか黒字を達成する状況でした。工程、労務管理を含め、安定的な生産を継続するには会社的な組織とする必要を組合員たちに自覚させる結果となったようです。  80年の和解時には組合員は96名となっていました。和解条件として本社工場の明け渡しをせざるを得なかったこと、今後の事業継続の困難さの理解から、ペトリ工業への参加組合員は24名にとどまったそうです。  この本の書かれた1991年時点で、ペトリ工業は元組合書記長を経営者に双眼鏡を主製品としてパートタイマー100名で操業していたそうですが、元の組合員は10名以下になっていました。  265 :リバースアダプタ:2012/05/12(土) 18:52:52.93 ID:kxYN7w9i 以上です。  ペトリ工業設立時には、すでにカメラ事業の継続は難しい状況だったのではないかと思います。  ただ、MF-10やCF-35に関しての記述は無く、開発経緯や柳沢氏のかかわりに関してはわかりませんでした。  266 :リバースアダプタ:2012/05/12(土) 19:29:59.31 ID:kxYN7w9i 264さん、まちがい、補足がありましたらお願いします。  それと1974年の倒産危機時に、三菱銀行が全面的にペトリを買取るという話があったそうです。  三菱グループにはニコンがありますが高級機主体であったため、中、低価格機のペトリを取込みフルライン化図るというもので、実現していたらニコンと統合されて会社が存続、ペトリブランドも残っていたかもしれませんね。  267 :264:2012/05/12(土) 19:48:13.68 ID:65/IUSKM リバースアダプタさん、  よくまとまっているとおもいます。今日は本当にお疲れ様です。  ペトリ倒産時に康二が独立して作った黒羽光学がニコンに買収されたのはその辺のいきさつもあったのかもしれませんね。  ペトリの経営が行き詰まったのは同族経営で利益を一族で独占する所にあった気がします。米軍依存の大きさも災いしたのでしょう。  ニコンに買収されていたらどんなカメラを作っていたのでしょうか。品質が向上して面白いことになったかもしれませんね。  268 :桜木町の青い雷:2012/05/12(土) 20:09:50.49 ID:0ZT+c3ES リバースアダプタさん。  柳沢氏への手紙の草稿お疲れ様でした。  それと、三菱銀行がペトリを買い取る話しが有ったのですか??  驚きです。  栃木のペトリの工場(レンズ製造?)が、現ニコンであることから  推測の範囲ではありますが。  どこかで、トーンダウウンしたのでしょうね。。ある意味残念です。  そういえば、一時期ペトリがニコンのレンズをOEMしていた話しも  ありますので、それ程ペトリのレンズ製造技術は悪くは無かったの  でしょう。  非常に恥ずかしい表現ですが。。愛しているのはペトリですが信頼して  いるのはニコンの私としては複雑です。  269 :リバースアダプタ:2012/05/12(土) 20:34:16.71 ID:kxYN7w9i 74年の話は、別の銀行の融資がきまり栗林家の経営権が残せたために立ち消えになったようです。  ニコンと統合されていたら…  ニコンEMがペトリEMとして発売されたり、ペトリピカイチが発売されたりしたのかなw  そういう想像をするのも、ちょっと楽しいですね。  270 :桜木町の青い雷:2012/05/12(土) 21:11:05.01 ID:0ZT+c3ES >>269  そうですか。。  >ニコンと統合されていたら…   ↑   当時の経営状況・資本規模から言ったら、PETRIをNikonがを吸収した  って形でしょうなネ。。現実的には。。   ただ、ニコンの弱い?初心者向きの機種にPETRI?の名前が残っていたら  楽しいって言いますか、考え深いものが有ります。   ま~なににしましても、企業の行く末なんて判らない物です。。  271 :いつかはペトリ:2012/05/13(日) 01:24:54.95 ID:fUYnpPlO >>262  リバースアダプターさん、お疲れ様です。また、「日本の労働者自主管理」の要約  ありがとうございます。コシナの実質OEM機ペトリM35を出しておきながら、  その後、ペトリカラー35Eのマイナーチェンジ機ペトリ35Eに事実上の逆戻り  をした背景はなるほどこういうことか、と思いました。  272 :リバースアダプタ:2012/05/13(日) 05:41:13.94 ID:MYXaBeBy いつかはペトリさん、おはようございます。  日本の労働者自主管理は非常に詳しい研究書です。私が書いたのは本のごく一部分で要約とはいえません。  図書館サーチで検索すると一般の公立図書館でも蔵書しているところが多い本ですので機会があれば読まれることをお勧めします。  別の目でみていただくと新たな発見があるかもしれません。  組合で自主生産したと思われるのは、ペトリマイクロコンパクトですね。ですがこれについてはこの本にも書かれていないようです。  倒産前に生産されたと思われるペトリ35Eは、ペトリの工場で生産されたのか、外部の工場に生産委託されたのかはよくわからないです。この時期、組合の反対で一時外注を抑えたこともあったようですので。  ペトリ末期レンズシャッターのカメラは、どこでどういう経緯で生産されたのかわからないものが多いですね。さらに研究して家系図式の技術的な繫がりがわかる資料を作りたいです。 

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示: