石川雅規

石川雅規(いしかわまさのり)

  • 背番号19
  • 1980年1月22日生まれ
  • 秋田県秋田市出身
  • 左投左打

  • 秋田市立秋田商業高校ではエースとして活躍。高校時代は甲子園で現オリオールズの和田毅と投げ合う。秋田県内では元鯉の仁部智、後松重栄、そして藤田太陽と共に秋田県内では注目される存在だったらしい。
  • そして青山学院大へ進学後は、後にプロでも決め球となるスクリューボールを習得。東都大学リーグでエースとして活躍、2000年にはシドニーオリンピック日本代表に選出された。
  • 大学時代の通算成績は51試合23勝8敗。そのほかタイトルも総なめしている。

  • そして2001年ドラフト自由獲得枠でスワローズに入団。
  • プロ入り1年目は開幕一軍こそ逃すものの、4月上旬に初昇格後は順調に勝ち星を積み重ねて12勝をマーク、新人王を受賞。
  • 2年目となる2003年は2年目のジンクスにもめげずに昨年と同じ12勝を挙げる。
    • 以降、2007年に初めて2ケタ勝利を逃す(4勝)まで毎年2ケタ勝利+規定投球回到達という安定した成績を残し「エース」、「小さな巨人」(後述)と呼ばれるようになる。

  • 2008年から投手キャプテンに就任。新たにシュートを習得し、4月には月間MVPを受賞。その好調を維持し続け、ムエンゴのために勝ち星は12勝とあまり伸びはなかったが最終的に防御率2.68で自身初タイトルとなる最優秀防御率を獲得。そして投手では球団史上初となるゴールデングラブ賞も受賞。
  • 2009年からは選手会長を務め、館山とともに左右のエースとして君臨。チーム初のクライマックスシリーズ進出に大いに貢献。
  • 2010年は当初開幕から6連敗。しかし高田監督辞任後はこれまでの不安定さが嘘のように勝ち星を積み重ね、後半は無傷の11連勝。この年は館山の他に村中由規も2ケタ勝利を挙げており、メークミルミル立役者の一人となった。
  • 2011年、5月14日の横浜戦で通算100勝を達成。この年もなんとか2ケタ勝利。
  • 2012年まで5年連続で開幕投手を務める。その開幕戦では巨人を相手にいきなりノーノー未遂をやらかす。さらに通算1000奪三振も達成。しかしシーズンでは調子がいいとは言い切れず、最終的に8勝どまりで2ケタ勝利には届かず。
  • 2013年も開幕ローテを担うものの、調子は一向に上がらず2勝5敗と負け越してしまう。そして、交流戦終盤に腰の張りを訴えて登録抹消。

エピソード

  • 身長は公称167cm。とかなり小柄。そのプロ野球選手としては恵まれない体格から毎年のように安定した成績を残していることから「小さな巨人」とも呼ばれる。
    • 身長の低さはやはりいじられどころであり、とあるテレビ番組ではドッキリで寝起きに「今、石川選手に足りないのは身長」と嫌いな牛乳をたらふく飲まされたことがある。
  • あだ名は「カツオ」。他に「マサ」、志田からは「イシくん」と呼ばれている。
    • ちなみに「カツオ」の名付け親は失礼王子ヨネ。どちらも石川より年下
    • 理由は某国民的アニメに出てくるキャラクターに似ているからだが本人は気に入っているようで、アンダーシャツには鰹をデザインしたマークがあしらわれていいる。
  • ロジンバッグに触れた後、手についたロジンを息で吹き落すのは恒例行事。
  • 主砲属性を持ち合わせており、打撃が得意。また足も比較的早いため、一度古田の代走に出された経験がある。

石川の乱(旧wikiからコピペ)

石川の乱とは、忘れもしない2006.7.15神宮対巨人戦のことを指す

この頃はひよっこだった巨人の内海を初回から攻略
1回裏で7点取ったゲームであった。
青木、リグスと連続ヒット、岩村ラミレスと連続四球押し出し。
ラロッカ犠牲フライで2点目
宮出2塁打、田中ヒット、米野2塁打、青木ヒットの固め打ちであった。

やくせん住民は歓喜の渦で、いやー内海なんて使いモノにならんと書き込んでいた。

くたばれ読売気分満点だった。

二回表、阿部のタイムリーで石川1失点

二回裏 懲罰登板の内海から3凡

三回表  先発石川から内海ヒット、二岡ヒット、キムタク2塁打、ヨシノブ三振、アリアス四球・・・・満塁

ここで7-2で先発石川をあきらめ、2番手坂元ヤタロー
阿部に2塁打、矢野にヒット、仁志四球、内海ゲッツーアウトで終了 7-7の同点に。
自責点は石川5、ヤタロー2・・・・

ここで内海の負けは消えた

四回表

投手は3番手の丸山貴

二岡三振、キムタク四球のあと高橋ヨシノブに2ランHR。さらにイ・スンヨプにもHR。
これで7-10になる

このあと双方点を加えて、試合は9-11でヤクルト負け。
勝ち内海、負けマルタカ。

この日の試合は最後となったフジテレビナイター祭りの日で、全国ネットで放送されてました。さらに花火まで打ち上げられてました。

この試合で懲罰登板させられた内海は、何かが吹っ切れたようにこの後めきめきと本格派投手に成長していきました。

この日のやくせんの荒らされ方は半端でなく、ゲーム途中から荒らされ、さらに試合後も荒らされ続け、ようやくなんとか正常に戻ったのが、日付をまたいだ午前2時と記憶してます。
この件をきっかけに各所に避難所が設置された。

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最終更新:2013年06月25日 20:49