「かなちゃん、雨は神様のおしっこなんだって」
10年前、姉の畢に言われた言葉を金雨ははっきりと覚えている。4歳のころの記憶が鮮明さを失わないのは、大好きな姉のその言葉が彼女を魔人として生まれ変わらせたからだ。
「また、やっちゃった……」
6月11日の早朝。寮の個室で目覚めてすぐ、下半身を濡らす冷たい感触に金雨はため息をついた。週に1、2度、オムツをする程では無いが、失敗してしまうのだ。
ベッドから起き上がり濡れたパジャマと下着を脱ぐ。
もう中3なのに……と溜め息をつきつつ外を見やれば、更に溜息をもう1つ。黄ばんだ世界が窓越しに覗ける。
その原因は降り注ぐ黄色い雨――引いては、尿の雨を降らせる彼女の魔人能力「神の雫」にあった。発動条件は失禁すること、つまりは金雨のおねしょが、今この雨を降らせていることになる。
妃芽薗学園を覆う高二力フィールド下で魔人能力は大きく制限され、発動も極めて困難になる。従姉に当たる千雨がそうだったように、傍迷惑な降雨能力を持つ彼女がこの学校を選んだのは必然だったが、フィールドは完璧ではなく、極稀に発動を許してしまうのだ。
結果として年に1度か2度、妃芽薗には尿の雨が降り注いでいた。数年前の連続殺人や現在学園を騒がせる失踪事件とは異なり、不快感だけで実害は少ないが、「体育倉庫の百合女神像」「裏園芸部」等と共に妃芽園七不思議の1つに数えられている。
その日の昼休み、金雨は学食にて友人と共に昼食を摂っていた。
「久しぶりに降ったよねーあのおしっこの雨。
今日は明け方だったからまだいいけど、それでも蒸し暑い上におしっこ臭くてマジありえない。金雨も嫌っしょ」
「う、うん……困るよね」
罪悪感と恐怖を内に秘めて金雨は友人の言葉に応答する。魔人学園である妃芽薗だが、希望崎と違い能力が殆ど封じられる環境故、相手の能力や魔人かどうかさえ知らぬまま友人・恋人にというケースは少なくない。金雨もこの友人が魔人なのか知らないし、逆もまた然りである。
「私が犯人です」と白状したいが、したらきっと「えんがちょ」ではすまないだろう。学園の大勢が私を嫌うに違いない。入学から2年余り、保身のためにここまでそのこと
を隠してきた私が今更正体を明かしても、許されるはずがない。
尿の雨が学園に降る度、金雨はそんな思いに胸を囚われていた。
「そう言えばさ金雨、知ってる? 踊り場の『まどか様』の噂」
「ふぇ? う、ううん! 知らないよ。って、もしかしてまた怖い話!?」
心中を表すかのように俯いていた金雨だが、友人が振ってきた新たな話題にハッと顔をあげる。それは、妃芽薗の浅い歴史に見合わず数多くある怪奇譚のうちでも最も新しく、センセーショナルなものだった。
曰く、中等部校舎2階の踊り場の鏡前で「まどか様、まどか様。おいでください」と3度唱えれば白フードの少女が現れ、どんな願いでも叶えてくれる――。
「へえ……」
この友人は金雨が怖がる姿が好きで、そのためによく怪談や都市伝説の類を仕入れてくるのだが、ここまで聞いた限り金雨は特に恐怖を感じなかった。願いを叶えてくれる、というのもこの手の都市伝説にはありがちなネタに思われる。何となくこの先に何か来るのだろうな、とは予想してはいたが。
「それでね。まどか様はいつもは願いを叶えてくれるんだけどさ……。普段の見返りってことなのかな? たまーにね、願い事を聞かずに女の子を鏡の中へ……」
「中へ……?」
冷や汗を流しつつ聞き入る金雨。
そのときテーブルの下、行儀よく揃えられた彼女の白い足に突如冷たい何かが触れた。
「ひゃあっ!?」
甲高い悲鳴と共に、絶頂したかのように椅子の上でピンッと反り返る金雨。
「あはは、引っかかった引っかかった」
話に集中する金雨の足を、友人は自分の内履きの爪先でちょんとつついたのだ。
「も、もう~」
太腿をぎゅっと閉じ、両手を挟んで何かを我慢するような姿勢のまま、涙目で友人を睨み付ける金雨。その表情に友人は背筋がぞくぞくするのを感じつつ、ごめんごめんと金雨の頭を撫でてやる。怖い話をしてやった後のこんな表情を見るのが、彼女の大きな楽しみだった。
「こっちでもちょっと降ってたねー。
でも、ボクは嬉しかったよ。かなちゃんが誕生日お祝いしてくれてるみたいでさ」
夜――電話越しにこの日が誕生日の姉・畢はそんなことを言う。「神の雫」が如何ともし難い能力だと知る家族の者は金雨を責めたりはしないのだが、雨を司る一族・雨竜院家でも特に愛雨の精神に富んだ彼女は気遣いからではなく、純粋に妹が降らせる雨を喜んでいるようだ。
そんな姉の言葉に沈んでいた金雨の心も少しだけ弾んだような気がした。まるで「あまんちゅ!」の雨を浴びているように、心に染みついた負の感情が洗い流されていくのを感じていた。
「ありがとう、お姉ちゃん。実習がんばってね。お誕生日おめでとう」
あめふりちゃんとの電話の2時間ほど後、ベッドに入ってねむりについたかなめちゃんは、気がつくと無機質な、ビルがたくさん立ち並ぶ街にいました。建物がたくさん建っているのに人は全くいない様子で、空虚な匣といった感じです。そしてもう1つ現実の街と明らかに違うのは、建物も、地面の舗装も、全てが黄色で統一されていることです。
「『お兄さん』のところか……」
かなめちゃんは少しだけ嫌そうな顔でため息をつきました。年に何度か、かなめちゃんはこの黄色い世界の夢を見るのです。
「久しいな……金雨」
かなめちゃん1人きりだったその場に、突然人影がぼうっとあらわれました。黄色いマントをはおって、薄い黄色のサイバーサングラスをかけています。
「お兄さん……」
さっきよりもさらに嫌そうな顔になって、かなめちゃんはその人の名前を呼びました。かなめちゃんが夢のなかでこの世界に来ると、このお兄さんも必ず現れるのです。
お兄さんはいつもお漏らしの話とか、ショタの話とかしてきて気持ち悪いのでかなめちゃんはこの人が好きではありませんでした。そんなお兄さんですが、今はいつになく真剣な表情をしています。いったいどうしたんだろう、とかなめちゃんはちょっと不安になりました。
「今まで、済まなかった……。
私のために、お前たち姉妹には重い十字架を背負わせていた」
お兄さんの言葉は謝罪から始まりました。
姉妹……かなめちゃんとあめふりちゃんが背負う十字架。かなめちゃんはそれが何のことなのかすぐにわかり、カーっと赤くなりました。
「お、お兄さんのせいでお姉ちゃんと私はお漏らしをするように……?
なんで? それに、お兄さんは何者――」
「だが、お前たちの十字架を下ろしてやることは私にも叶わない。
畢はともかく、お前はそのために苦しんできたのだろう」
「ア、ハイ」
かなめちゃんの質問に答えず、お兄さんは話をつづけます。お兄さんには人の話を聞かないところが前からありました。
「苦しみの元を断つことは出来ない……だが、苦しみをやわらげてやることは出来る。
今までの侘びに、そのための力を、与えよう」
かなめちゃんは何がなんだかわからないまま聞いていましたが、お兄さんがくれる「力」というのはろくでもない予感しかしなかったので拒否しようとしました。
「あ、あの……別に何もいりま――」
「新たな力は『旧校舎』でも役に立つはずだ。受け取れ」
「き、旧校舎? ふっ……ふわあああっ!!」
お兄さんがかなめちゃんを指さすと、その直後かなめちゃんは淡い光に包まれ、そしてこの世界からすーっと消えてしまいました。
1人きりになった世界で、お兄さんは空を見上げ、呟きます。
「私の力も、あの世界には及ばない。
お前の頭上に、運命の慈雨が降り注ぐことを祈ろう、金雨――」
お兄さんの目から涙が零れ、ほおを伝います。お兄さんはそのままの姿勢で泣いていました。やがて、その空からも黄色い雨が降り始め、その雨はいつまでもやむ気配を見せませんでした。
「ああ……私……こんな力まで」
目を覚ました金雨は頭を抱えた。多くの魔人がそうであるように、自身が魔人となったときと同じように、金雨は授かった「力」がいかなるものか、既に認識していたのだ。
「もう……お漏らしなんか絶対出来ない……」
「黄金体験」――彼女の失禁を見た女性の失禁を誘発する、ある意味「神の雫」以上に迷惑な能力である。それに、一体この能力が何の役に立つと言うのだろう。金雨は「黄色いお兄さん」への嫌悪感を深めた。
金雨が、あの男の言葉の意味に気がつくのは、1月以上先――夏休みを目前に控えた時期のことである。雨の中一緒に歩いていた友人がふと目を離した隙に、消えていた金雨。そこに残っていたのは、雨によるものに混じった黄色い水たまりだけだった。
最終更新:2013年08月03日 22:10